『パールへの道』3:見ればかけるよ

引き続き、貧乏なお話です。

いや、当時は自分の家がそんなに貧しいとは思っていなかったのですが、振り返ってみてあらためて気づかされました。確かに、おこづかいは少なかったし、絵をかくのはチラシの裏だったし、着ている服は母親が縫ったものだったし…。

 

そんな感じだったので、雑誌なども毎月買ってはもらえませんでした。『楽しい幼稚園』とか『小学○年生』などですね。あっ、学研の『科学』だけは毎月取ってくれていました。教育熱心な家庭だったのかな? というか、子供的には付録にひかれていたはずです。

 

ともかく、身のまわりにある情報が圧倒的に少なかったわけですね。今のようにネットもなければ、ビデオもない。そして、テレビ番組はオンタイムでただ1回見られるだけでした。

一般家庭にビデオが普及するのは1980年代に入ってからなので、1970年代はテレビが純粋にテレビとして機能した最後の時代だったと言えます。

 

やや話がそれますが、ぼくは20世紀でもっとも文化的インパクトの大きかった発明はビデオだと思っています。それまでは動画を普通の人が扱える機会はなく、時間は常に目の前を流れていくものでした。その時間を手に取れるパッケージにしたのですから、これは凄い。聴覚的にはレコードやカセットがすでにありましたが、視覚的な時間の物質化はより強烈だったと思うのです。

 

 

さて、録画もできないし、資料も少ない。そんな中で自分の好きなキャラクターを描けるようになるには、番組を見ながら「覚える」しかありませんでした。動いているものを見て、細部まで覚える。

その原動力は所有欲だったはずですし、そう言ってよければヒーローたちへの「愛」だったと思います。

 

一旦構造を覚えれば、何も見ないでヒーローがかけるようになります。しかも、自分の好きなポーズで。時間や場所にもしばられません。学校の授業中でも、ノートのはしっこに自分の好きなキャラクターを呼び出せました。ちょっと黒魔術のようじゃないですか。

逆に、資料を見ながら描くのはいささか卑怯なこととされていました。「そりゃぁ、見ながらだったら誰でもかけるよ」と。そっちが王道なのにね。いずれにせよ、その皮肉は割と普通に言われていたので、うちだけでなく、世の中全体がおおむね貧しかったのだと思います。

 

 

その倒錯した価値観は、実は日本文化の伝統全体にも通じています。

中国文化の荘厳さに対し、長い間日本はへりくだった態度を取ってきました。建造物しかり、文字文化しかり。

特に建造物は奇麗に作るところまでは真似できましたが、後が続きません。平等院の鳳凰堂なども、もとはベカベカのド派手な建造物でした。が、徐々に色あせていく…。そして、それを修復するところまでは資金がないわけです。結果として朽ちるに任せるしかなく、そこから「それでもいいんだ」「いや、それがいいんだ」という価値観が生まれていきました。侘び寂びですね。

 

伊集院光さんが、プロ野球観戦に関して同じようなことを言っていて、ひざを打った覚えがあります。

お金持ちの子供はジャイアンツの試合を内野席で見られるけれど、自分はお金がないので同じ後楽園でもファイターズの試合を外野席で見るしかなかった。メジャーな選手を間近に見られる高揚感などなく、酔っぱらいにからかわれながら見るのが生のプロ野球観戦だった、と。そこから野球の「通」になっていくわけです。

「見ればかけるよ」にも、それに似たものがありました。要するに、負けているものが「それでもいいんだ」「いや、それがいいんだ」と思い返す文化ですね。それ、道化にも通じます。

 

 

やや話がそれますが、美大時代、英語の時間に落書き合戦をしたことがありました。最初にぼくがマジンガーZを写実的に描き、その絵をまわしたのがきっかけです。われもわれもとみんなが自分の好きなヒーローをかき出しました。いや、みんなうまかった。そりゃ、美大に通るくらいですから(笑) 何より、誰もが複数のテレビヒーローを描けることに驚いたものでした。ぼくらの世代は特に強くテレビの影響を受けたのかも知れません。

 

ちなみに、「キャラクター」の語源は「刻みつける」ことです。神様が性格を刻みつけたのが人間のキャラクター。人間が板などに刻みつけた文字もキャラクターと呼びます。

つまり、各自の胸にそれぞれのキャラクターが大切に刻みつけられていたわけですね。

 

 

記録と記憶は似ているようですが、逆のベクトルを持っています。

記録は身体の外に何らかのしるしをつけて残しておくもの。一方、記憶は身体の中に情報をしみこませる営みです。なので、覚えて描くというのは、ヒーローとの一体感にもつながります。やっぱり覚えることの原動力って「愛」だと思うのです。

 

伝説の言語学者・井筒俊彦さんにこんな逸話があります。

イスラム圏から日本に来た大学教授が一冊も本を持っていないことを不思議に思い、どうしてなのか問いただしました。すると、「本に頼らなければならないのはそれを覚えていないからだ。自分は大事な文章は全てそらんじている」と。これには舌を巻いたそうです。

 

イスラムの教授に比べるべくもありませんが、ぼくはぼくで記憶に関してちょっとしたプライドを持っていました。

トランプゲームで言えば『神経衰弱』ですね。めくられたカードは1枚たりとも忘れないという、妙な意地がありました。4枚めくって1セットが取れる、「4枚めくり」という遊びまで考えたりして。

青い街の1作目が神経衰弱をベースにした『UNGERADE/奇数』だったことは、そうしてみると必然だった気もします。

 

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

さて、次回は「弟のこと」です。

『パールへの道』2:これ、いらない?

予告では「表は経済、裏は美術」なんて堅苦しいタイトルをつけてしまいましたが、ちょっと疲れていたのかも知れませんね。

そんな大それた話ではなく、内容は新聞の折り込みチラシについてです。

「な~んだ、それ」と思われたでしょうか?

でも、そのこと、かなり深いところでぼくの原体験になっているのです。もっと言えば、カードゲームとの驚くような類似が、折り込みチラシにはありました。

 

時代はやっぱり1970年代初頭。新聞の折り込みチラシは、非常に簡素なものでした。上質紙に1色ないし2色の片面印刷。特に、スーパーのチラシがそうでした。

で、お金のないわが家では、チラシの裏面はけっこう大切にされていたわけです。タダで手に入る白い紙でしたからね。

 

キャンバス、と言ってよければ、正にそれがぼくにとってのキャンバスでした。

「これ、いらない?」と、よく母に聞いていたのを今でもハッキリ覚えています。そしてそこに、仮面ライダーウルトラマンをせっせと描いていました。

 

 

一旦、世の中にとって有益な表面が使われたあと、裏面に自由な空間が広がっている。それがチラシの裏に絵を描くことの大きな意味だったように思います。

実はぼく、あまり「サブカルチャー」という言葉が好きではありません。何故なら、メインに対してのサブは、あくまで同じ地平に立っているからです。つまり、カウンターカルチャーではない。

メインカルチャーが有益ならば、無益なカルチャーはバックにある気がするのです。

 

それは、王様と道化の関係に似ています。

王様は表の世界を支配し、そのすみずみにまで秩序をいきとどかせます。が、権力は必ず一定の価値観でかたよるため、あらためて全体のバランスを取らなければなりません。その時活躍するのが道化です。

家臣は王様の価値観にしたがわなければならいため、全体のバランスを取ることはできません。むしろ、ドンドン価値観をかたよらせてしまいます。サブカルチャーって、やっぱりメインカルチャー側にいるわけです。

 

ただ一人、道化だけが王様に反抗し、世界全体をつりあわせます。王様にさからい、からかうことで世界全体をしょって立つ。王様が表の中心なのに対して、道化はその真裏にいるわけです。道化、カッコイイではありませんか。

表に対する裏って、つまりはそういうことなのです。

 

 

さて、裏面がいかに気楽でノビノビとしたものであったかは、画用紙と対比するとさらによくわかります。

両面が白い画用紙に何かを描く時、ぼくはずいぶん緊張したものです。世界に対して、新しい何かをつけ加える怖さがそこにはありました。ノートでも、表面に書く時の方が緊張感が高いですよね? それに対して、裏面にはある種のなごやかさがあります。

 

実は、「新」という漢字の意味はけっこう深淵です。

「辛」は先のとがった道具で、これを投げて切り出す木を選びました。「斧」でその木を倒して、新しい木を手に入れたわけです。で、何を作ったかというと、位牌。死んだ人の名前を書きしるしておく木の板ですね。一番「見」る位牌は父母のものなので、そこから「親」という字も生まれました。

 

つまり、新しいというと何だかめでたい感じがするのですが、世界に新しいものをつけ加えるのって、死んだものを増やすことなんですね。敢えて言えば、殺すこと。なるほど、緊張するわけです。

「王の血染めのマントは三代で白くなる」という言葉があります。初代の王様というのは猛々しく、そのマントは血塗られています。その激しさが薄まるには三代かかるという意味です。

 

もちろん、そんなこんなはずっと後になって知りました。知識としてですね。

オンタイムで感じていたのは、「裏の方が気楽だなぁ」って印象くらい。それとて言葉になっていたわけではありません。習字の一筆めだったり、お絵描きの色塗りだったり、両面が白い紙への最初のアプローチは何だかチクチクして、居心地が悪かった。その裏返しとして感じていたわけです。

 

 

最後に、チラシとカードゲームの類似について触れておきましょう。

それは、片方の面が全部同じで、片方の面が異なるということです。

呼び方は表と裏で逆になりますが、チラシの印刷面(表)とカードの裏面は同じ絵柄で、公に開かれています。みんなが同じものを見るわけです。それに対して、チラシの白紙面(裏)とカードの表面は、個人に向けて閉じています。

 

だからカードゲームが好き! ってのは言い過ぎですが、表と裏がそれぞれに役割を持っている状態が、ぼくには安心できるみたいです。

どちらか一面だけが突出すると、落ち着かないんですね。

 

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

こんなに長い文章を書くつもりではなかったのですが、書いているうちに止まらなくなってしまいました。聞かれたことに答えるのって、何だか楽しいものですね。

さて、次回は「見ればかけるよ」です。

『パールへの道』1:カードはほとんど買ってもらえませんでした

クラウドファンディングの特別企画として、どんなきっかけでカードゲームを作るようになったのか、なぜそれほどまでにカードゲームに思い入れがあるのかを書いてみようと思います。

たぶん、今まで書いたことのない、赤裸々な内容になるんじゃないかな。

 

というのも、これはぼくの発案ではなく、facebookつながりの田原真人さんのアイデアだからです。クラウドファンディングに興味を持ってもらうための企画であると共に、「スギオカさんのカードゲームへの思いを聞いてみたい」と。つまり、たずねられたことに答える形なんですね。ならば、正直にお話ししましょう、と。自分から秘密を言ってまわりはしませんが、たずねられれば答えられるので。

では、始まり、始まり~。

 

 

さて、タイトルの「カード」は実はカードゲームのことではありません。ズバリ「仮面ライダー」カードを指しています。かっぱえびせんでおなじみのカルビーが発売した、仮面ライダー・スナック。そのお菓子におまけとしてついていたカードです。Wikipediaによれば、発売されたのは1971~73年にかけてとのこと。当時ぼくは小学校低学年でした。

 

これまたWikipediaによれば、くだんのお菓子は1袋20円だったようです。ずいぶん手頃なお値段という感じもしますが、それは今の感覚だから。当時はちょっとした金額でしたし、何よりうちにはあまりお金がありませんでした。

 

父親は銀行員だったので、赤貧というほどではありませんでした。が、何しろこの父親が絵に描いたような亭主関白で、自分が使いたいだけを給料から抜き、残りを家にいれるという形だったのです。

ゴルフと麻雀が趣味で、部下にもよくおごっていたらしく…。結果、ぼくのおやつにまではお金がまわってきませんでした。仮面ライダー・カードに関して言えば、まったく持っていなかったわけではありませんが、本当に数えるほどだったと思います。

 

さらに言えば、カードを欲しいだけの子供は、本体であるスナック菓子を川などに投げ捨てていました。それもまた「もったいないなぁ~」と思ったものです。

その原体験のようなものが、現在のカードゲームに対する嗜好にも反映されています。

 

 

遊戯王』や『ポケモン』など、それぞれの人が自分のデッキ(規定枚数のセット)を作るタイプのゲームは、「トレーディング・カード・ゲーム」と呼ばれます。で、それはそれで大変おもしろいのですが、仮面ライダー・カードの記憶がぼくをその種のゲームから遠ざけるのです。

 

つまり、コレクション・タイプのものは、どうしても最終的には資本勝負になります。仮面ライダー・カードもそうでしたが、なかなか出ないカードは「レアカード」として大きな価値を持ちます。そして、昔は枚数に差をつける交換だったところ、今では専門ショップにおいて高額で取り引きをされるのです。つまり、ゲームではあるものの、現実のお金と密接に結びついているんですね。

ぼくはそれを、ちょっと「さえんなぁ~」と思うのです。「さえん」というのは広島の方言で「冴えない」というほどの意味。誰かがつまらない思いをするのは、さえんなぁ、と。そんな風に思ってしまうわけです。

 

 

青い街も、将来的にはトレーディング・カード・ゲーム的なものを作るかも知れません。ただ、そこにはぼくならではのヒネリが入ると思います。

いずれにせよ、まずはセット完結するタイプのゲームにこだわっているのは、「さえん人がおらん」ようにしたいからなのです。

 

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

次回は「表は経済、裏は美術」です。

人生初の試み!

クラウンドファンディング【CAMPFIRE】に参加中。
おかげさまで、なかなか順調な滑り出しです。
現在、9人の方にパトロンになっていただき、85,500円を集めています。
『PAAR/恋人同士』という恋愛カードゲームの再版プロジェクト!
引き続き、パトロンになってくださる方を募集中です!

 

http://camp-fire.jp/projects/view/1184